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世界最強の処世術を、なぜ日本の天皇だけが身につけられたのか?

 前回のコラムで、なぜ日本は2700年にわたって単一王朝が続いているのかという記事を書きましたら、すごく反響がありました。日本は他国に侵略されたことがありません。太平洋戦争で負けてアメリカ軍に一時的に占領され、GHQ(連合国軍総司令部)に7年間だけ管理されていました。しかしながら、天皇の存在が途絶えることはありませんでした。では、なぜこれだけの間、単一王朝の継続が可能だったのでしょう。その理由を紐解いてみましょう。

 日本は飛鳥時代に「大王」にかわり「天皇」という呼び名を採用しました。それが672年、『壬申の乱』に勝利した大海人皇子が、即位して天武天皇となったのです。それまでの国家元首は、ヤマト政権内の「王」である豪族のリーダーでしたが、天武天皇から次元を超えた別格になったのです。

 奈良時代になると天皇の下で、藤原不比等からはじまって政権が目まぐるしく入れ替わります。もちろん藤原氏が最有力ではありましたが、あくまでもトップは天皇で、その権威は安泰でした。平安時代になって少し様子が変わります。858年のこと。清和天皇が9歳で即位すると、母方の祖父である藤原良房が、幼少である天皇の政務を代行するべく「摂政」に就任したのです。

 そして良房の養子だった基経は、光孝天皇が55歳で就任すると、成人後の天皇を補佐する「関白」に就任。これが「摂関政治」の始まりです。摂関政治が始まると、母方の親戚である藤原氏に、政務だけを任せたのです。藤原氏は、天皇を排除してトップに立とうとは考えませんでした。圧倒的な権威を持つ天皇の縁者として政務を代行しているからこそ、摂政や関白に価値があるのです。ですから、天皇の価値を下げて貴族の分際でトップに立つことにメリットがなかったのです。変化する政治を巧みに利用しつつ古代の天皇は権威をキープしました。

 平安時代が末期になると天皇により「院政」が始まります院政とは、天皇の位を後継者に譲った上皇がそのまま政治を行う体制のことです。母方の父や伯父・叔父として藤原氏の摂政・関白もいるのですが、父や祖父が皇位を退いたあとも新天皇の後ろ盾となり、政務をみるようになったのです。

 中世になると、鎌倉幕府や室町幕府といった武家政権になります。幕府は軍事的には朝廷よりも強大なパワーをもちます。実質的には全国を支配していたわけですが、天皇にとって代わろうとか排除しようとはしませんでした。源頼朝にしても足利尊氏にしても、朝廷から賜った征夷大将軍という地位で満足していたのです。

 なぜなら、権威を持つ朝廷から将軍として任命されることに価値があったからです。つまり、新興勢力である武家は裏付けとなる伝統的な権威がなく軍事力だけでは長続きしないと悟っていたのです。このように天皇は、軍事力や経済力で上回る将軍に対し、権威を承認するという方法で自らの地位を維持したのです。とても賢い処世術ですよね。

 そのあと室町幕府が衰退して、各地の戦国武将が覇権を争う時代になり、天皇や朝廷はすっかり落ちぶれてしまいました。そんな朝廷の財政を立て直し、権威の回復を図とうと考えた正親町天皇は、美濃の斎藤家を倒し、めきめきと頭角を現していた織田信長に書状を送ります。そして織田信長も支援を送って朝廷の財政を回復させつつ、天下統一という目的のために天皇の権威をそつなく利用しました。

 近世の江戸時代も、基本的なスタンスは同じ。江戸幕府は圧倒的でしたが、天皇は政権を将軍に委任する権威の象徴として生き残りました。このように天皇は、その時点で最強の勢力を積極的に承認することで生き延びたのです。これは相対する勢力と戦って滅びていく運命をたどったヨーロッパや中国と大きく異なる点なのです。

 日本の天皇が率いる朝廷は、時の権力者と持ちつ持たれつの関係をキープしながら単一王朝を維持してきたわけです。そんな世界最強の処世術をなぜ日本の天皇だけが身につけられたのか?その理由は、日本神話に隠されています。

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