冬至は、誰かが決めた日でも、
最初から暦に書いてあった日でもありません。
人が、気づいた日です。
時計も、カレンダーも、
現代のような正確な測定器もなかった時代。
人ができたことは、とても単純なものでした。
想像してみてください。
毎日、同じ場所から空を見る。
太陽がどこを通るかを見る。
影がどれくらい伸びるかを見る。
秋が深まるにつれ、
影は伸び続け、太陽は低くなり続けます。
それを、一日や二日ではなく、
何年も、重ねて続けました。
データは蓄積され、
やがてパターンが浮かび上がってきます。
ある頃から、違和感が生まれます。
影が、あまり変わらなくなってきた。
太陽の高さも、ほとんど変わらない。
この時期、体感としては
まだ一番寒く、一番暗い季節です。
何かが始まった感じは、
まったくありません。
それでも人は、
観測をやめませんでした。
そして見続けた結果、
境目に来たと確認できたのです。
正確には、
ある一日をピンポイントで
言い当てたわけではありません。
長い観測を重ねる中で、
「もう同じ向きには進んでいない」
と分かりました。
さらに観測を続けると、
やがて影は短くなり始め、
太陽は高くなり始める。
そこで初めて、
あの変化の向きが定まらなかった期間が、
転換点だったと理解できるのです。
いわば、
変化の方向が切り替わる帯を見つけた、
という感覚に近い。
未来を予測したわけでも、
希望を信じたわけでもありません。
ただ、見続けた結果として、
変化の向きが変わっていた流れに
入っていたことを確認した。
それが、冬至です。
人は、そうやって
流れの切り替わりを見つけ、
変化を派手に捉えようとはしませんでした。
劇的な出来事を待つこともなく、
分かりやすい始まりを探すこともなかった。
途中で結論を出さず、
「まだ暗いから失敗」
「寒いから間違い」
そう決めつけなかった。
変わり続けるものを疑わず、
同時に、変わらないリズムがあることを信じて、
観測を続けたのです。
この姿勢が、
実は今、私たちにも問われています。
占いを学んでいると、
この姿勢がいちばん難しくなります。
早く意味を知りたくなる。
早く使える形にしたくなる。
「今はどの段階ですか?」と、
一度の答えで足場を固めたくなってしまう。
それが悪いわけではありません。
ただ、その答えに落ち着くには、
今はまだ早いこともある、というだけです。
でも、冬至は教えてくれます。
変わった実感がないまま、
変化の方向だけが
静かに切り替わっていることがある。
その最中にいる本人には、
それが境目なのかどうか、
その場では
はっきりとは分からない。
そして、
そうした
「変わった実感がないまま、
変化の方向だけが切り替わっていた」
という変化を、
いかに納得できる形で
手渡していけるか。
そこにこそ、
占いに関わる私たち自身が
常に磨いていくべき姿勢が
あるのだと思います。
冬至は、始まりの日ではありません。
変化の向きが、
すでに違っていたことに
気づいていく日です。
これ以上、暗くはならない。
でも、すぐに明るくなるわけでもない。
その曖昧な帯の中に立ち続けるとは、
どういう姿勢なのか。
それが、今、私たちに問われているのかもしれません。
人が冬至を見つけたとき、
そこには、
物事を複雑にしすぎない目線と、
変わり続ける流れを疑わずに見続ける姿勢、
そして、
それでも変わらない型があるという
静かな感覚が、
そっと重なっていました。
易では、こうした考え方を
易簡・変易・不易という言葉で表します。
名前を知るより先に、
人はもう、それを生きていたのです。
もしあなたが今、
学びの途中で
手応えがなくなったと感じているなら。
むしろ、
分からなくなってきたと
感じているなら。
それは、
間違った場所にいる
サインではありません。
判断を保留する力が、
育ち始めているのかもしれません。
まだ結論は出さなくていい。
「これでいいのか」と問い続けながら、
それでも見ることをやめない。
その姿勢のまま、
人は次の段階へと
移っていくのだと思います。
冬至を見つけた人たちがそうだったように、
答えは、
派手な瞬間ではなく、
静かな観測の先にあるのです。

