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孔子(こうし)を知って『易(えき)』を学ぶ

古代中国で生まれた、古くからある占い『易(えき)』。

『易(えき)』では、陰(いん)と陽(よう)という相対的な原理をもちいて、この世のすべての変化の法則を占います。

『易(えき)』はもともとは、占いとして生まれたもの。

ですが古代中国の様々な人の手により、人生の法則を明らかにする“哲学”としても捉えられるようになりました。

その奥深さは、易が儒教の経典(きょうてん)のひとつとなり、中国の思想や文化に大きな影響を与えたことからもうかがえます。

占術としての側面と、哲学としての側面を持つようになった易。

これから占いとして易を扱いたい!という場合にも、易の学術的な部分に触れておくことはとても役に立ちますよ。

ということで今回は、易と関わりの深い中国の哲学者、孔子(こうし)について一緒に触れていきましょう。

孔子(こうし)といえば、多くの方が思い浮かぶのは『論語(ろんご)』ではないでしょうか。

『子(し)曰(いわ)く…』で始まる、アレです。
学校の古典の授業を思い出すかもしれませんね。

この『論語(ろんご)』は、孔子の考える人生哲学や思想がつまっているもの。

『易経(えききょう)』と同じく儒教の経典(きょうてん)のひとつとなっています。

また晩年に易を学んだとされる孔子ですが、
易の基本図形である六十四卦(ろくじゅうしか)の解説書を作ったのも孔子だと言われています(諸説あります)。

そんな、易とは切っても切り離せない人物である孔子は
紀元前552年、中国山東省(さんとうしょう)のある村で生まれました。

孔子の生涯は、決して順風満帆なものだったとはいえません。

孔子は3歳で父親を、17歳で母親をなくしています。
幼くして片親となった孔子は、貧しさの中で独学で学問に励み、世に出ようとしました。

孔子は19歳の頃に結婚。長男をもうけ、そして下級役人になります。

役人としてその才を存分に発揮したいと思っていた孔子でしたが、当時は仕事といっても倉庫係や牧場の管理人といった、あまり重要ではない仕事しか与えられなかったようです。

とはいえ、幼い頃の貧しい生活や、そういったところでの経験が孔子を形づくったともいえます。

30代の頃には孔子の名も学者として世間に広まるようになり、弟子たちにも囲まれるようになりました。

その後40代、50代にかけて政治の中枢に入り、孔子は“徳を持った者が君主となるべき”と奮闘します。

が、この頃は国内での権力争いや下克上など、人々の争いが絶えなかった時代。

孔子の考えは当時の人々には受け入れられず、なかなか実現できるものではありませんでした。

そして55歳の頃には権力者の制圧に失敗し、それから14年もの長い間、亡命生活を送ることになります。

放浪生活の中でいろいろな国を転々とし、ときには襲われて命からがら逃げたり、飢えで困窮したこともありました。

放浪中、孔子は各地で仕官をこころみますが、どこの国でも武力を優先する時代…

孔子の掲げる理想を受け入れてくれるところはどこにもありませんでした。

失意のうちに14年が経ち、祖国へ帰ってきた孔子は、弟子の教育に力を注ぎます。

弟子は3000人を超え、孔子は弟子たちに自身の理想を惜しみなく教えました。

晩年、一人息子や愛弟子の死による深い悲しみを味わいながらも孔子は、教育者としての顔を持ち続けます。

74年の生涯を終えるまで、孔子は多くの弟子たちを育てました。

孔子の思想は弟子たちの手によって『論語(ろんご)』となり、そして現代にも受け継がれているんですね。

日本でも多くの著名人が学んでいる孔子の思想。

『論語』に書かれている孔子の言葉からは、今でも多くのことが学べますよ。

次回はそんな『論語』から、占い師にとっても必要な“ものの見方”をご紹介します。

椰奈空《ヤナク》